金澤山福泉寺圓能院(きんたくさん ふくせんじ えんのういん)は、真言宗智山派に属します。「新篇武蔵風土記稿」によれば圓能院と日枝神社は村上天皇の御代(天暦弐年948年)の開創とあります。
圓能院山王権現縁起
武州橘樹郡河崎之領小田村氏者、惣廟山王権現、天暦貳戊申三月申日、京都従比叡山遷、村上天皇之御代ニ奉守護、本地阿弥陀如来、山者金沢、寺謂福泉、院号圓能、本尊大日如来也
寛永年間から寛文年間(1624~1673年)にかけて辨秀・辨正・辨祐・辨誉法印らが大いに法灯を輝かしました。
新本堂建立に当り、平成二十年に仏像修理をしました時に、ご本尊大日如来像の胎内には大日如来の造立に関する資料は発見されませんでしたが、「新造 阿弥陀如来尊像 慶長十一年(1606年)九月二十三日願主 圓能院 辨秀」という書面が納めてありました。
薬師如来立像の体内には、「享保八年(1723年)十月二十七月 願主 秀慧」と記してありました。この中興開山と録されている秀慧法師(~1733年)の代には本堂の建立ならびに境内の整備を見るに至りました。
弘法大師・興教大師の体内には、「元文三年(1738年)開眼供養」と記された板が納められていました。
さらに賢礼・弘覚・快秀・辯龍・快説・祐説法印へと法脈を継ぎ、文政六年(1823年)には、川崎大師平間寺から隆純法印(平間寺第三十六世)を迎えて寺門興隆が図られました。
現山門の建立は第十二世憲證住職の代、嘉永二年三月二十一日(1849年)と額の裏に記してありました。
圓能院は、関東大震災(大正十二年)と、戦災(昭和二十年)によって山門以外の堂宇は鳥有に帰しました。第二十世隆恩僧正の復興によって、本堂・客殿・庫裡を新たに建立し、山門を修復しました。
さらに、二十一世隆賢代に皆様のご協力を得て、本堂・大師堂・延命地蔵尊像・水子地蔵尊像・不動堂・観音堂を造建しました。
圓能院墓地には、川崎地区で最も古い寛永十三年(1636年)に造られた(川崎郷土研究会認定)光性院賢海禅師地蔵像があります。
この地蔵尊像は、旅の行者(賢海禅師)が晩年に小田地区で往生するにあたって、穴の中で鉦をたたきながら念仏三昧に入りました。
「鉦の音が消えたなら私は成仏した証拠であるから、供養をする者には願を叶えてやろう。」との遺言にしたがって、以後この地蔵尊像が建てられ多くの信仰をうけてきました。
天暦二年比叡山より勧請された(新編武蔵風土記)
秀盛 | 寛永十一年一月六日(1634年) | |
辨秀 | 正保五年二月八日 | |
辨正 | 寛文四年一月十四日 | |
辨祐 | 寛文四年九月十三日 | |
辨誉 | 寛文六年五月一日 | |
辨良 | 宝永三年五月八日 | |
辨寿 | 宝永三年七月六日 | |
賢恵 | 宝永三年十一月二十一日 | |
中興開山 | 秀恵 | 享保十八年七月二十日 御朱印十石 |
二世 | 慧照 | 享保十三年四月五日 |
三世 | 慧鏡 | |
四世 | 慧辨 | |
法印 | 弘章 | 寛保三年十一月二十四日 |
五世 | 賢礼 | 延亨三年四月二十日 |
法印 | 栄辨 | 宝暦六年十一月二十三日 |
々 | 泰厳 | 宝暦九年七月十五日 |
六世 | 弘覚 | 明和四年八月二十八日 |
七世 | 快秀 |
八世 | 辨龍 | (十四代) |
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九世 | 快説 | 文政三年八月二十五日 |
法印 | 大恵 | 明治十一年十二月三十一日 |
十世 | 祐説 | |
十一世 | 隆純 | 平間寺三十六世 弘化四年六月十二日 |
十二世 | 憲證 | 嘉永二年三月二十一日 山門建立 |
十三世 | 宥法 | |
十四世 | 隆阿 | 明治十九年四月二十九日 |
十五世 | 隆寿 | 金藏院住職 昭和七年五月二十一日 |
十六世 | 隆運 | 平間寺四十一世 大正十二年八月七日 |
十七世 | 隆田 | 大正二年八月二十九日 |
十八世 | 隆現 | 智積院五十四世、上品蓮台寺住職 昭和二十二年八月九日 |
十九世 | 隆識 | 大正十三年八月九日 |
二十世 | 隆恩 | 昭和五十九年十二月七日 |
二十一世 | 隆賢 | |
二十二世 | 隆一 |
元旦祈祷 | 1月元旦 |
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常楽会 | 2月15日 |
春彼岸会 | 3月 |
弘法大師正御影供 | 3月21日 |
地蔵尊供養 | 4月29日 |
大施餓鬼会 | 7月10日 |
盆供養会 | 7月13日〜16日 |
秋彼岸会 | 9月 |
興業大師会 | 12月12日 |
年納祈修 | 12月31日 |