圓能院のいわれ

圓能院(圓能院)

●本尊大日如来御詠歌
「御佛の中に優れし大日の光に漏れる者とてはなし」
●地蔵菩薩御詠歌 (東国八十八ヶ所第五番)
「六道の能化の地蔵大菩薩導き給へ此の世後の世」

落慶法要 動画

由来

本堂内陣 本堂内陣
境内全景 境内全景
境内 水子地蔵尊(昭和56年) 境内 水子地蔵尊(昭和56年) 本堂 本尊金剛界大日如来 本堂 本尊金剛界大日如来
玉川八十八ヶ所霊場第六番札所
客殿 聖観世音菩薩(昭和50年) 客殿 聖観世音菩薩(昭和50年)
東海三十三観音霊場六番札所

金澤山福泉寺圓能院(きんたくさん ふくせんじ えんのういん)は、真言宗智山派に属します。「新篇武蔵風土記稿」によれば圓能院と日枝神社は村上天皇の御代(天暦弐年948年)の開創とあります。

圓能院山王権現縁起
武州橘樹郡河崎之領小田村氏者、惣廟山王権現、天暦貳戊申三月申日、京都従比叡山遷、村上天皇之御代ニ奉守護、本地阿弥陀如来、山者金沢、寺謂福泉、院号圓能、本尊大日如来也

寛永年間から寛文年間(1624~1673年)にかけて辨秀・辨正・辨祐・辨誉法印らが大いに法灯を輝かしました。

新本堂建立に当り、平成二十年に仏像修理をしました時に、ご本尊大日如来像の胎内には大日如来の造立に関する資料は発見されませんでしたが、「新造 阿弥陀如来尊像 慶長十一年(1606年)九月二十三日願主 圓能院 辨秀」という書面が納めてありました。
薬師如来立像の体内には、「享保八年(1723年)十月二十七月 願主 秀慧」と記してありました。この中興開山と録されている秀慧法師(~1733年)の代には本堂の建立ならびに境内の整備を見るに至りました。
弘法大師・興教大師の体内には、「元文三年(1738年)開眼供養」と記された板が納められていました。

さらに賢礼・弘覚・快秀・辯龍・快説・祐説法印へと法脈を継ぎ、文政六年(1823年)には、川崎大師平間寺から隆純法印(平間寺第三十六世)を迎えて寺門興隆が図られました。
現山門の建立は第十二世憲證住職の代、嘉永二年三月二十一日(1849年)と額の裏に記してありました。

圓能院は、関東大震災(大正十二年)と、戦災(昭和二十年)によって山門以外の堂宇は鳥有に帰しました。第二十世隆恩僧正の復興によって、本堂・客殿・庫裡を新たに建立し、山門を修復しました。
さらに、二十一世隆賢代に皆様のご協力を得て、本堂・大師堂・延命地蔵尊像・水子地蔵尊像・不動堂・観音堂を造建しました。

圓能院墓地には、川崎地区で最も古い寛永十三年(1636年)に造られた(川崎郷土研究会認定)光性院賢海禅師地蔵像があります。

賢海地蔵

境内 賢海禅師地蔵尊(寛永13年) 境内 賢海禅師地蔵尊(寛永13年)

この地蔵尊像は、旅の行者(賢海禅師)が晩年に小田地区で往生するにあたって、穴の中で鉦をたたきながら念仏三昧に入りました。
「鉦の音が消えたなら私は成仏した証拠であるから、供養をする者には願を叶えてやろう。」との遺言にしたがって、以後この地蔵尊像が建てられ多くの信仰をうけてきました。

圓能院歴代住職

天暦二年比叡山より勧請された(新編武蔵風土記)

秀盛寛永十一年一月六日(1634年)
辨秀正保五年二月八日
辨正寛文四年一月十四日
辨祐寛文四年九月十三日
辨誉寛文六年五月一日
辨良宝永三年五月八日
辨寿宝永三年七月六日
賢恵宝永三年十一月二十一日
中興開山秀恵享保十八年七月二十日 御朱印十石
二世慧照享保十三年四月五日
三世慧鏡
四世慧辨
法印弘章寛保三年十一月二十四日
五世賢礼延亨三年四月二十日
法印栄辨宝暦六年十一月二十三日
泰厳宝暦九年七月十五日
六世弘覚明和四年八月二十八日
七世快秀
八世辨龍(十四代)
九世快説文政三年八月二十五日
法印大恵明治十一年十二月三十一日
十世祐説
十一世隆純平間寺三十六世 弘化四年六月十二日 
十二世憲證嘉永二年三月二十一日 山門建立
十三世宥法
十四世隆阿明治十九年四月二十九日
十五世隆寿金藏院住職 昭和七年五月二十一日 
十六世隆運平間寺四十一世 大正十二年八月七日
十七世隆田大正二年八月二十九日
十八世隆現智積院五十四世、上品蓮台寺住職
昭和二十二年八月九日
十九世隆識大正十三年八月九日
二十世隆恩昭和五十九年十二月七日
二十一世隆賢
二十二世隆一

年中行事

延命地蔵尊(唱和37年) 延命地蔵尊(唱和37年)
東国八十八カ所霊場第五番札所
元旦祈祷 1月元旦
常楽会 2月15日
春彼岸会 3月
弘法大師正御影供 3月21日
地蔵尊供養 4月29日
大施餓鬼会 7月10日
盆供養会 7月13日〜16日
秋彼岸会 9月
興業大師会 12月12日
年納祈修 12月31日